先代は

進んだ人で、宇野さんたちと
フランスへ出かけたりしておりました。
自社の織物を銘仙と呼ぶな!
いつも、口をすっぱくして申しておりました。

秩父の織物の歴史はもっとずっと遠く、ずんと重い。
だから秩父織りでいんだよ・・・と

逸見織物と高橋香代子さんのコラボ①

新しい秩父織り(MEISEN)のご紹介です。
ようやく、ご協力頂いたデザイナーさんの名前を公表出来て嬉しい限りです。
デザイナー高橋香代子さんと逸見織物のコラボ。
まるで金属のようにクールな光沢を放つ
女子紬ラグランコートです。
光沢のある秩父織り男子背広用生地で仕立ててございます。
帽子は
コラボのヨーロッパ販売用でございます。

こちらは銘仙のアロハ

逸見織物の工房内

糸繰機 絹糸をボビンに巻き取ります
整経機 にボビンをたて秩父銘仙の経糸つくりの工程
整経機で絹糸を必要な本数だけ引きます
 整経機で秩父銘仙反物幅に巻き取ります 
仮織中
管巻機 横糸はボビンから管に巻き取ります
管に巻いたらシャットルにセットして秩父銘仙の緯糸となります
捺染上がりを織機にかけ 仮織り糸を解しながら本織りします。
手織り機にはさき織りやコースター、ストールや
帯などがかけてあり手織り体験できます。

秩父銘仙の染は②

ほぐし捺染の特許について経緯を聞かれましたので
お答え申し上げておきます。

織元の坂善さんが秩父銘仙を守っていくために
大正時代に取得されました。
が、この特許は、坂善さんの強い意向で
秩父で銘仙を作っている工場なら
誰でもが自由につかえるようになっております。
真に志の高い秩父人。先が見越せる尊い先人でございました。
この旨は銘仙関連工場にいらしたみなさんは
誰でもが知っている事です。

今は、特許は失効しているかと思われますが、
伝統工芸品の認定に乗じて、誰かが仮にこの特許を取得、又は
掲げて一本化しようというような動きがあれば、
これは秩父にとっては由々しき事態でございます。
今ある工場やすでに廃業されました織元さんのすべてを集めて
公文章として後世の方々に指示しておかないとと存じます。

銘仙の歴史と伝統や経緯を知る世代が少なくなったからといって
下請けの染め屋さんがこれまで歴史と伝統の秩父銘仙を主導的な立場で守ってきたかのごとき誤解を招くような表現や権威付は秩父人として恥じ入るべきかと存じます。
尊い先人の苦労が報われません。
わたくしどもの世代と大変な温度差を感じてございます。

なにしろ弊社ですら秩父ではもう廃業して
小物しか作っていないかのようなニュアンスに変わって
きておる次第でございます。
今回の国の伝統工芸品認可の件においては
2013年11月29日まで、こちらから新しい組合に出向かなければ伝える意志がなかったことは明らかで、ここにシステム上の
問題があるかと存じます。

秩父銘仙の染は①

昔はどの織り元にも工場内に捺染場があり
織り元ごとのデザインや色使いを互いに切磋琢磨しておりました。
デザイン型
ほぐし捺染

新たにデザインが起きると織り元やお客様が型代を収めて
柿渋紙を手堀りして木枠にはめ
整経した経糸に先染め(捺染)します。
つまりこの時点で織り布の裏表に模様が生まれます。
捺染であがってきたものを
再び織り元が織機にかけ織りあげます。
経糸と緯糸の微妙な色合いにより
絹糸がもつ光沢と銘仙独特のテリが光と影に触れ
織り布がさまざまな表情を見せるのです。
緯糸の色で織布の表情が全く違ってまいります。


縞ものは、絹糸を織元が染色を発注し、
染め上がった糸を織り元が整経して織りあげていきます。
縞でも格子でも緯糸の微妙な色使いで
仕上がりがまったく違ってまいります。



☆秩父銘仙ができるまで

0、銘仙の捺染用デザイン型(柿渋木型またはスクリーン)は織り元か
オーダーされたお客様が代金を納めております。
*お着物の捺染用デザイン型と広幅(座布団・風呂敷用など)の
捺染型では型枠の大きさが異なります。

1、デザインが決まり捺染の型おこしが済みましたら、織り元が、糸屋さんに絹糸を発注して代金を支払います。
加えて緯糸の色を指定して発注し織元が代金を支払います。

2、糸屋さんから届いた無地の経糸用の絹糸を織り元が糸繰機でボビンに巻きとります。

3、ボビンに巻かれた絹糸をボビン立てにセットして整経機で
経糸だけひいてお着物の反物幅と長さに整経します。

4、3で整経した経糸を巻き取ったら、織機にかけられるように織り元で糸をつなぎます。

5、織り元が仮織り機で仮織りします。

6、捺染(田中捺染)やさんにほぐし捺染をお願いします。

7、捺染(田中捺染さん)から戻ったら、織り元が、織機にかけます。

8、1で発注した染め上がりの絹の緯糸を織り元が糸繰機でボビンに巻きとります。

9、8でボビンに巻いた緯糸を、更に、管巻機で管に巻きます。

10、管をシャットルにセットしたら7の織機にかかっている
仮織り捺染済の品に、仮織り糸をほぐしながら緯糸を
織り込んで(ほぐし織り)織り上げていきます。

11、織り元で検品後、整理工場さんに整理をお願いし代金を支払います。

12、整理工場さんから戻った反物を再び織元が検品して選別されます。

こうして検品が済んだお品が、秩父銘仙として、お着物の反物、
あるいはKYOKO’sクラフトでバックや小物となり
お客様のもとへとお届けできるのでございます。

*弊社では1回に12ひき(24反)分の絹糸で経糸をひいて整経いたします。
1年間に400反ほどの秩父銘仙を織り上げます。
反物を織り上げるには、染め上がりの絹の緯糸が
デザイン(色)ごとに12ひき(24反)分、1年間で200~400反分が必要となります。
この緯糸を、お客様に、ご納得いただけるレベルで
きっちりと均一に染める上げる技術をもつ工房や上記、12の整理工場さんや
繭から絹糸を紡ぐ製糸所は、既に秩父にはございません。
よって、秩父でつくられた繭はほとんどが
他県に流れてしいます。
重ね重ね真に残念なことでございます。
千年以上も脈々と引き継がれ
血と汗と涙と喜びを産んできた
今でも秩父の農家さんがつくっておいでの
秩父魂の白絹(白繭)や玉繭が千年先でも残っているように
祈るばかりでございます。

因みに、絹のお着物1反を織り上げるには
お蚕さん≒3000匹(繭≒3000コ)≒ 5kg。
お蚕さんが食べる桑の葉は≒100㎏が必要だそうでございます。
繭が化粧品や石鹸、食品などへと多用途化はしましたが
養蚕農家さんへの助成がなぜか無くなり、
秩父でも、1.5トンも繭を生産していた家の中に巨大な神棚が鎮座する歴代の農家さんが
その蓄積されたノウハウを後継者に伝える事もなく、最近、廃業されております。
先日、KYOKOが廃業された2軒の農家さんを回ってお話を伺ってまいりました。
使っておられた貴重な道具を真に志の高い方に引き継いでいただきたい
という事でお取次ぎのお手伝いをしてまいりました。
『良い繭を作ろうと思ったら、桑が大事である。そして、良い桑の種を取って育てる事が
最も重要である。ただ、桑の葉を貰いに来るだけで、形だけお蚕をやるのなら誰にでも出来る。日々、惜しみなく研究に励みなさい』と申されたそうです。

絹糸を確保するのも困難な時代でございますが、 
日本中でこのような加工工場や原材料の不足はおき、
もはや市や県とかいった垣根をこえて
より質の良い原材料を探さないと自立さえままなりません。
日本中の産地と技術で互いを支え合い、より新しく、より良き日本の品が求められる
グローバルな時代なのでございます。

分業となった秩父銘仙の各関連工場どうしが
これまで何十年も仕事を出し合って
互いを支え合ってまいりました。
古銘仙にこだわって、現代銘仙を売らなければ
量産も出来なくなり、じり貧で内向きな小じんまりとした活動だけとなり
やがては絶えてしまいましょう。
秩父銘仙をつくっていない工房が銘仙の看板を立てて
秩父銘仙を主導あるいは仕切ろうというのであれば
また新たな既得権が生まれ、
真にある秩父銘仙関連工場や新規に参入した意欲のある工場が
それぞれに持つ独自の個性や技術が損なわれます。
よくもまぁ次から次に助成事業のお題を見つけます事で・・・
趣味の程度の技術しか持たない方(後継者育成は大事ですが、
公私を混同してはなりません。)を集めて、0から始める壮大な銘仙の事業計画で
年に一反・二反の趣味の程度の品しか作れないのであれば、
報告書は書けても目の肥えたお客様の目はごまかせません。
御社様がお持ちの得意な技術から作り上げられた
織り布を極められてゆかれたほうが
より早く、より安上がりではないかと存じます。

無くなったとか、復活させたとかがひとり歩きして、
なぜ、今、内向きな方や密室にばかり行きたがるのか、
大切な仕事仲間を次々と失い、瀕死の秩父銘仙の現実が
検証されないまま突き進んでいるのが大変に危ぶまれます。

弊社は、常に、新しきを取り入れて進化を続けてまいりました秩父銘仙のスピリットを、
これ以上は足踏みさせたり、後退させる訳にはまいりません。
再び、逸見織物出張所を町中に復活させて、秩父魂の歴史や伝統の織物を
まずは足元からコツコツと発信して
最後の御恩返しに努めて参りたいと存じます。

秩父絹織り(銘仙)豆知識

古代より知々夫絹とよばれてきた美しい白絹は、鎌倉時代にお公家さんの雅な時代から武士の世となり、秩父絹布も質実剛健な絹布へと変化を遂げていきます。

安土桃山時代に南蛮渡りのシマモノに影響を受けて、秩父で初めて縞もの(経縞柄)を生産するようになります。やがて世が鎮まると秩父絹織布は大きく成長を遂げることとなります。

江戸時代に入り徳川家が幕府を江戸に開いた事で、絹織物の商いがいっそう活発になり、各地で市が立つようになると、養蚕・製糸は秩父の産業へと発展します。

日本三大引き山祭りで知られる秩父夜祭りは、元々、12月に立つ市が始まりで別名はお蚕祭りでした。

うちでは、この歴史的な背景や庶民が愛用し続けてきた事から、一時期を風靡した銘仙という称では呼ばず、何百年の時を超えて脈々と引き継がれてまいりました秩父の絹織物が未来にも引き継がれていくように願いを込めて、代々、秩父織りと呼んでいます

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日本書記より、千々は多くの幡。千々布(ちちぶ)は布(はた)の数が多いの意味で、八幡(やはた、はちまん)の八も多いの意味である。

地名辞書より、知々夫彦は織工集団の首領であり、居住地を八幡荘(八幡荘は矢波田・矢羽田とも書く)と唱へ、織工の奉斎神である八幡社を祀る。