秩父絹織り(銘仙)豆知識

古代より知々夫絹とよばれてきた美しい白絹は、鎌倉時代にお公家さんの雅な時代から武士の世となり、秩父絹布も質実剛健な絹布へと変化を遂げていきます。

安土桃山時代に南蛮渡りのシマモノに影響を受けて、秩父で初めて縞もの(経縞柄)を生産するようになります。やがて世が鎮まると秩父絹織布は大きく成長を遂げることとなります。

江戸時代に入り徳川家が幕府を江戸に開いた事で、絹織物の商いがいっそう活発になり、各地で市が立つようになると、養蚕・製糸は秩父の産業へと発展します。

日本三大引き山祭りで知られる秩父夜祭りは、元々、12月に立つ市が始まりで別名はお蚕祭りでした。

うちでは、この歴史的な背景や庶民が愛用し続けてきた事から、一時期を風靡した銘仙という称では呼ばず、何百年の時を超えて脈々と引き継がれてまいりました秩父の絹織物が未来にも引き継がれていくように願いを込めて、代々、秩父織りと呼んでいます

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日本書記より、千々は多くの幡。千々布(ちちぶ)は布(はた)の数が多いの意味で、八幡(やはた、はちまん)の八も多いの意味である。

地名辞書より、知々夫彦は織工集団の首領であり、居住地を八幡荘(八幡荘は矢波田・矢羽田とも書く)と唱へ、織工の奉斎神である八幡社を祀る。